もうひとつの下妻物語(卍や七代目)

二十数年ぶりに帰郷。まぁ当たり前だが、激変ぶりに浦島太郎の氣分に陥っている。温故知新。古きを訪ねる記。使っている画像は自分で撮影したもの。借り物の場合は其の旨記載します。人生の整理をするために書き残そうと考えてます。過激と思われることも多々あろうが、日本が好きだから、許せないことは明白にしておきたい。むろん、残り少ない人生でもあり、子孫への遺言でもある^^;

大宝神社と大宝城と鳥羽の淡海

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一年ぶりに訪ねてみた。

食糧買い出しのついでだったが、暖かさも後押ししてくれた感。

それこそ幼児期からだから参拝歴は60年を超す^^;

亡くなった祖父の口癖が、神仏にはありがとうだけ!何も頼んではいけない!だった。

ゆえに、神仏に参る折には、ありがとうございます!だけを唱え続けてきた。

ご利益?は、参拝出来たことだけで十分と。

子どもの頃、昭和30年代であろうか。

この神社の秋の大祭はとても、賑やかだったのを覚えている。

叔母が近所に嫁いだこともあったんだろうね? ほんと、何度も連れられた。

菊花展が開かれていて思い出した。

さて、大宝神社。

いくつもの新発見があった。

その1,大宝神社の由来

大宝律令は中学?で学ぶのかしら?

飛鳥時代藤原京の元年にあたる701年に発布されたいわば職位と法律を併記した憲法のようなものかしらね?

そこから神社名を得ていることを初めて知った(T_T) 古いです。

随分と深い歴史的な名称でもあり、当時の交通網、情報網からすれば、凄いことでしたね。まぁ見方を変えれば、朝廷の威光が届いていたことの証左の一つでもあろうか。

宇佐八幡宮勧請したとある。

面白いのは宇佐八幡宮の創建は、712年とされている(官幣社

(社伝上は571年とあるようだ。)

大宝は701年~706年?

本宮よりも先に創建は出来ないだろうからね

 

もう一点、二拝拍手一拝。出雲大社が一拝祈念、二拝、四拍、一拝。

出雲族なのかも知れませんね。

そういえば、大宝神社の拝礼は確認しないまま、二拝二拍手一拝で済ませてしまったが。氣になります。

 

茶店と菊花展

2年ぶり?に訪ねて氣づきました。

鳥居の傍らに、二軒の茶店があった筈ですが、一軒は駐車場になってましたね。

廃業されたようです。

往時は繁盛店だったんでしょうけどね、ここにも時代の変遷がありました。

笠間稲荷と並んで菊花展は有名だったやに記憶してます。

右の一枚は赤富士だそうです。特等でした。何の賞かは失念。

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まぁ平日でもあり、境内には、ジジババ(アタシも前期高齢者ゆえ同類)&介護施設の同じくジジババが多数。

境内の裏山も初体験

時間もあることだし、裏を一回りしてみようと散策。

創建は701年以降。とされてますが、歴史上の地域の覇者からの庇護は受けた様子です。郷土の英雄、平氏の将門(逆賊にされてますが)戦国期の覇者・多賀谷氏。征夷大将軍でもあった、源頼朝源義家・・・。

戦さの続いた戦国末期までは、武将は詣でておられたようですね。

ちなみに、当地は、別名大宝城とも呼ばれてます。南北朝の降りには、旧筑波町の小田城、関城町の関城、黒駒の駒城を含めて南朝方(楠木正成北畠親房)に付き、足利尊氏重臣、高師冬に全て滅ぼされている。

ちなみに、地名の下妻は平氏系の子孫が最初に名乗り、大宝城の城主となった小山氏系の下妻氏に受け継がれた様子。

その下妻氏もこの戦で滅亡し、多賀谷氏の時代になる。

多賀谷氏の興亡は後に記す機会もあろうかと。

記録に残されている中では、最初に戦勝祈願した征夷大将軍源義家とされてるようだ。有名な二代目征夷大将軍坂上田村麻呂が任じられたのが797年とされてるので、ひょっとしたら坂東武者を集めるために立ち寄ってるやも知れない。

いずれにしても、歴代の征夷大将軍が立ち寄る拠点になっていたようだ。

征夷とは蝦夷を征伐するの意味であり、中国由来の役職のようですね。

古来、中国には、西戎南蛮東夷北狄なる言葉が残されている。四方が異民族に囲まれていた中国らしい言葉。飛鳥、奈良からみたら、陸奥は北ではなく、東だったんでしょうね?

賊とされた後三年の敗者を祀った神社が当社から数kmのところにある。

いずれ紹介したいと考えてる。宗任神社と呼ばれ、安倍総理の先祖とされている。陸奥から伊予の国~福岡に流されたようだ。

経緯は知らないが、後に、山口に蟠踞されたんでしょうね?

不思議な因縁です。

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頼朝公寄進とされる若宮八幡と南北朝で命をおとした下妻氏の石碑

幸か不幸か当地は敗者の歴史を負うている。(大宝神社を指しているわけでは無い!)

平将門の乱(敗れたからね)南北朝、多賀谷氏、天狗党。全敗かと(^^)

歴史は面白い。

境内を北に降りてみた。これも初体験だったが・・。

神社の案内に、鳥羽の淡海とある田んぼを見たいので降りてみた。

昔は、大宝沼とも呼ばれ、沼地の水田でもあり、田植えから稲刈りまで随分と難儀したと聞いている。

戦後の基盤整備事業で大型機械も入れるようになったようだが・・・。

都市計画道路が設置されており、少しは変化があるやも知れない。

この水田の北端にあったのが、関宗佑(小山氏系)が城主をしていた関城。(合併以前の町名で残されていたが、現在は筑西市となっている。

船で往来していたようですね。

関城も城跡(当時は土塁のみであり石垣を使った城壁は無い)が現存している。

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鳥羽の淡海と大宝神社を北から眺める

下向した朝廷の役人が、鳥羽の住民だったんだろうか?

大宝地区の北に文字を変えた地名として残されている。 騰波ノ江村。

面白いですね? あえて、違う文字を使ったのは意味があるんでしょうね?

 

一時間ほどの散策でしたが、強者共の夢の中に居た感。

境内に、大銀杏とケヤキの古木が葉の色を変えてました。

晩秋のひととき。堪能させていただいた。

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ケヤキの古木と大銀杏 (マタギの言葉を思い出します。樹は嘘つかねえ)

コンデジ派ですが、思い立っての立ち寄りだったので、スマホ画像。

失敗しましたね。

いずれ、機会をつくって、コンデジ画像を撮りに伺いましょうね(^^)

 

大鳥居を潜ろうとしたら、お母さんと幼児のお嬢さんが揃って拝礼していた。

過半は本殿に願い事だけして、そそくさと帰る。

良い子に育つんだろうなぁと。

 

堪能させていただいた。