下妻物語
15年になるんだろうか?
平日の夕方と記憶している。観客は疎ら。
そりゃそうだ・・。下妻なんて都民の中で知ってる者、興味のある者は1,000人程度であろうと。
未だに記憶に残ってる場面が数箇所ある。
1,JUSCO行ぐべ!のフレーズ
2,田んぼのあぜ道の乳牛と深田恭子
まぁツッコミどころ満載の映画だったが、楽しく観た記憶がある。
もう一点。
上映中に前方の一群だけが笑いのツボが一緒だった。
確認出来なかったが、あれは地元民の一群では無かったろうか?
邦画はまず観ることは無いが、タイトルに惹かれて観せていただいた。
在京時はもっぱら、ハリウッドに投資。有楽町マリオンに行っていた。
割引券の販売所に立ち寄り、数百円安い入場券を手にしてね。
考えてみるとセコいが、暇があれば一人で観ていた。
ラスト・サムライのポスターが掛かっているから、随分と昔の絵ですね。
2年前に両親が相次いで他界し、後始末もあり、帰郷した。
誰かに電話し、迎えを依頼する方法もあったが、やめてバスに乗ってみようと考えた。
もうひとつ、駅前の母校を観ておきたかった。
田舎の村から町場(まちば)の高校に入学し、青天の霹靂を三年間体験した世界。
入学したのは昭和41年。世の中はいけいけ!の時代でもあり、混沌の時代でもあった。
昭和39年に東京オリンピックが開催され、伴い、東海道新幹線が開通し、首藤高速も開業した。
池田内閣の所得倍増計画と家電、自動車を中心にした製造業が成長を遂げ始めた時代。
一方で、水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく、新潟水俣病が表面化し、公害なる言葉が表面化していた時代。
成長に伴う歪が社会のあちこちで噴出していた時代でもあった。
県内でも霞ヶ浦の高浜入り干拓事業計画があり、周辺農家と漁師が反対運動を起こし、事業計画が頓挫している(※『霞ヶ浦住民の闘い―高浜入干拓阻止の証言―』)
同じころ、東大や日大に拠点をもつ学生運動『全共闘』が台頭し、昭和40年に三里塚に新空港建設の閣議決定がなされ、共産党主導の反対運動と組織化が進み、過激派が台頭していた時代であった。
共産系と非共産系が闘争し、傍らで、学生と機動隊が衝突を繰り返していた文字通り混沌の時代が昭和40年代。
その後過激派になった学生運動は、昭和52年の連合赤軍による浅間山荘事件で終焉に向かう。
記憶は定かではないが、小学、中学と同じ村の生徒だけが通う世界。
そこから、県内60前後の中学から生徒が集う高校への入学。そりゃ環境も氏素性も違う世界の同世代。戸惑うばかりの一年間だったやに記憶している。
当時の面影は、駅前には無かった。
構内に併設されていた売店も無い。駅前のタクシーも建物ごと無い。
バスプールにもバスが数台。
あとで知ったが、一時停止違反車を監視していたパトカーが一台。
あれ? バス路線が無い!
止むを得ず、タクシーで帰宅した。
爾来2年間。後始末に追われながら、村と町を観続けてきた。
沈むな~この町は・・・・を感じながら。
現代社会の交通手段は、鉄道と車と飛行機。
高校に自転車やバイクで通っていた時代とは、人の移動距離も目的も様変わりしている。当時、現在のつくば市内から通っていた生徒も結構な数が居た。
国鉄バスからゾロゾロと降りてくるのは、ど田舎の生徒と決まっていた。
民間が走らない地域を国鉄がカバーしていた時代。
そのつくば市も合併し、TXで秋葉原まで40分で行けるようになった。
沿線も様変わりして、駅前には、とても茨城の風景とは思えないマンションが林立し、郊外には戸建て住宅が次々に建ちならび、道路も新設が進んでいる。
最寄りの新幹線の駅は、栃木県小山駅。最寄りの高速道路ICは最近開通した圏央道常総IC。北関東自動車道や東北自動車道、常磐自動車道の各ICまでは一時間を要する。
そう・・・谷間の町へと変貌を遂げていた。
村にあったJAの支所は廃止されていて、商店街はほぼ、壊滅。
辛うじて、理髪店と家族経営のGSが営業を続けている。
まるで、浦島太郎。
後始末に追われて2年間。
最悪は密かな侵入者、竹。文字通り音もなく侵入し、竹の子は一ヶ月で竹林に育つ。
育ってしまった孟宗竹は切り倒すだけでも労力。
最盛期には、3日も見逃せば竹林に変貌する。
仕事をしていた地域へ戻る氣は失せつつある。別の方法で関わりを続ければ良いかと考え方が変貌している。
億劫な年齢になったこと、村や地域が消滅していくのを眺めたく無くなったこと。
まだまだ間に合う筈。
大いなる首都圏の田舎町として、なにかを遺せる筈と考えるまでに2年を要した。
だって、生まれ故郷であり、育った村でもあるからね。
思い出が点在し過ぎている。
そう・・・鮭が生まれ故郷に戻り子孫を遺すことと同様かも知れない。
鮭は雌雄共に産卵し、生涯を終えるようだが、、、、。
爺様の下妻物語を書いてみたいと突然思い立った。