富士山と甲斐の国の年末、年始 その1
今回の甲斐国訪問は様々な新発見があった。
人生は歴史探訪であることを再認識すると共に日本人に生まれて良かったとシミジミ。
30日に常総線⇒TX⇒武蔵野線⇒中央線(二度)と四回の乗り継ぎで石和温泉駅まで。
暮れであることを失念していたわけでは無いが、選択を誤った。
一昨年の暮れは、中央線を高尾乗り継ぎの鈍行だったから座れた。
今回は、間違えて、立川で特急に乗ったのがいけない。
通路で一時間。
疲れましたけどね。でも、お陰で凝縮の二日間を体験させていただいた。
詳しくは、思い立った折に書くことにして・・・。
31日 (富士山と信玄堤と神社)
快晴の予報もあり、霧の中、朝のまったり時間を過ごして、信玄堤へ。
山梨県は、大月や身延、富士吉田を除くと、甲府盆地に集中している。
甲府盆地全体でひとつの街で良いくらいの面積でしかない。
富士山は、甲府駅からでも40km圏内?
ゆえに、信玄堤も20分ほどで到着。
遺構が遺されていたが、お目当てでは無かった。が、新発見。
岩がゴロゴロしている釜無川にあった。
丸太は付け替えられていたし、石積みも番線で囲われていたから近年の措置なのか?
国交省がやったのか?山梨県がやったのか?は確認出来なかったが、これは無駄金ではありませんね。
ふっと、思った。先の19号の被害が隣県長野は酷かったが、山梨では起こって居なかった様子。歴史上、備えをした地域とそうでない地域の差異かと。
信州は、戦国時代は、武田の領地。いわば占領地だったこともあるのかしらね?と。
治水は一朝一夕は済まないことを教えてくれてるようだ。
同時に利水もうまいことされてた様子で、この付近に大きな取入口もあった。
同時に川を静めるための神社が川岸にあり、元旦に向けて、氏子さんたちが準備に忙しい様子。
既に、大きな日の丸が2竿掲げられていた。
日の丸をみると嬉しくなります。
三社神社は825年創建とされてる様子。
1200年も経ていることになる。
いつも思うが、日本国内での政教分離が叫ばれるたびに、無意味、無関係と感じ続けてきた。自然を畏敬してきたのが日本の神社であり、村社。
神社本庁と靖国神社を攻撃の対象にしているようだが、難癖でしかあるまいね。
まぁ神社本庁のことはわからんが、明治維新以降の戦没者を祀る靖国神社を攻撃するのは、米国のアーリントン墓地を攻撃するようなものかと思うけどね。
まぁ靖国さんも創建時の思いはわかるが、朝敵とされた皆さんも合祀すべきと思うよ。
いずれも国のために戦った皆さんだからね。
東北列藩同盟も、西郷さんもね。
合祀していただきたいと願っている。
ついでに、信玄堤は文字通り、武田信玄公の政策であったろうが、当時から土木と河川に精通していた人物が多数居たことがしのばれます。
信玄は指示しただけで奉行以下の役人と土木技師および近隣住民の多大な労役があってこそであろうかと。
ついでのついでに神社と社論。
たぶん、天皇家以前から、信仰は存在していた。
天皇家の支配と威光を知らしめるために、神社なる概念と社を建立してきたんであろうかと・・・。
支配階層から考えれば、当然の戦略ですわね。
この神社も初見。
金櫻神社とあった。新発見だったが、地元では有名のようだ。
金桜(別名鬱金桜うこん)とも呼ばれるようで、黄色の櫻を咲かせるようだ。
この櫻が御神木で、神社名の由来になっている。
が、創建2000年とある。
元旦の準備で忙しい氏子さんと立ち話をさせていただいたが目からウロコ。
甲府盆地の信仰の中心は、この神社だったようだ。
奥宮が背後の金峰山にあり、そこを創建したのが2000年前とある。
当地に社を建立したのが、1500年前とは氏子さんの弁。
それでも古い。
昇仙峡の通りは、元来が、この神社への参拝道であったことも聞いた。
元旦だと立ち話はさせてもらえませんからね~
長生きすればするほど、知らない世界が広がりますね~
関東平野で見かけることは無かったな~ 櫻は近年ソメイヨシノ一色になった感が否めませんが、数百種類もあるようですね。
考えてみれば当たり前ですが、武田神社は信玄公を祀る。
とすれば、武田家が祈願していた神社が存在したわけで、、、、。
このことも、目からウロコ(^^)
両社ともに、御礼を申し上げてまいりました(^^)
今朝は手と頭が疲れてきたので、ここまで。
次回は、富士山麓編としましょうかね?
今回は、富士山の絵を撮りまくったからね~
10年以上も付き合ってくれてるコンデジでもきれいな画像を残してくれました。
ということで、甲府から最初の富士五湖、精進湖からの富士山です。
ほんと、日本語は難解ですね~
精進料理(しょうじんりょうり) 精進湖(しょうじこ) ^^;