もうひとつの下妻物語(卍や七代目)

二十数年ぶりに帰郷。まぁ当たり前だが、激変ぶりに浦島太郎の氣分に陥っている。温故知新。古きを訪ねる記。使っている画像は自分で撮影したもの。借り物の場合は其の旨記載します。人生の整理をするために書き残そうと考えてます。過激と思われることも多々あろうが、日本が好きだから、許せないことは明白にしておきたい。むろん、残り少ない人生でもあり、子孫への遺言でもある^^;

甲斐の国2 “信玄堤と桃園神社”

年末年始を甲府で過ごした。

30日夕刻に甲府到着、2日の昼に帰郷した。

 

今回は新しい発見が続いた。

金櫻神社と信玄堤公園のことは、先に書いた。

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本来は、もっと早く記憶が定かなうちに書いておくべきだったが、2日以降、爺さんに

とっては、怒涛の日々が続いている。

ほっと、一息した昼寝明けの時間に思い出して書いておくことにした。

信玄堤公園から上流の支流に数km登ったところに、それはあった。

信玄堤は現在の甲斐市。合併前は竜王町だった筈。

龍は、川の流れを指していたんだろうね?

良きにつけ、悪しきにつけ、龍。

 

石積出 

一番堤から五番まであるようだ。

川の流れを緩やかにする目的だったんであろうね?

海に行くと、砂浜を護る目的で突堤が点在するが、同様の目的だったのかしら?

これは、見事という他ない土木工事の遺蹟。

信玄堤と呼ばれているが、無論、信玄公が指揮したわけではなかろう。

石積みの技術者が存在し、監督していた筈。

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川は左が上流。数km上流は岩がゴロゴロしている。遠くに見えるのが堤。

このあたりでも、川には、堤と同じ程度の岩がゴロゴロしていた。

驚くのは、ほぼ、当時のままで堤が遺されていたこと。

同様の堤が一番から五番まであったようだが、一番と二番だけ、観てきた。

よほどの技術者が居たんだろうか?

こちらが堤の現在。

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堤の上から。    こちらは堤の下から。いずれも二番堤。

二番堤は一段積み、一列。所によっては二段になっていた。

幅は6mほど、高さは3mほどだろうか?

これをすべて人力で積み上げ、激流に耐えたのは凄い!

 

こちらは、二番堤。大きさがわかると思う。

基礎部分は15mほど?

 

二番堤よりも遥かに大きい。

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一番堤、一部は三段になっていた。

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離れた場所からの一番堤

 

修繕は続けていたのであろうが、それにつけても、当時の土木技術は凄すぎ。

武田家は戦国武将にありがちな石垣をもった城壁を築いていない。

昇仙峡の裏道沿いに石積みの畑や田圃が点在していたから、あの技術の応用だったのかしら?

それとも、堤の技術を流用して、石垣のある耕地をつくったんだろうか?

いろんな事を考えさせてくれた信玄堤だった。

 

桃園神社

他所の土地に行ったら、村社を探して参拝するのが若い時からの習わし。

理由は2点。

その1,初詣は元旦の時報と共に出向くと決めていた。

その2,有名神社は駐車場探すだけで大変だし、事故の可能性が高い。

初詣も例年、村のお不動様への一番乗りを競っていた。

仕事で出掛けても、同様。

元旦に信玄堤探索がてら、GoogleMapで近在の神社を探してみたらあるわあるわ!

水に翻弄されてきた地域だからかしらね?

名もない、誰も参詣者がいない神社を二箇所訪ねた。

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村社からの甲府盆地   こちらは社

甲府盆地は、意外に狭い?と測ってみたら、東西が30km。南北が15km前後。

たぶん、つくば市程度の面積?

四方を山塊に囲まれているコンパクトシティと云うか、全域を甲府市にしてしまっても

良いくらい。貶しているわけではない。

この盆地に、葡萄畑、桃畑、温泉が点在し、ワイン蔵もいくつもある。

ある意味で羨ましい地域。

もう一箇所を訪ねた。

こちらにも参詣者は居ない。

この地域では、地域の社に命名書を奉納するのが習わしのようですね。

あちこちの神社に貼ってありました。

微笑ましい、地域の社の在り方のひとつですね。

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途中で出逢った猿の親子連れのお子。   この社の近くに親子が居た。

爺さんは階段で疲れたので平地の社を目指すことにして、途中の光景がこれ。

まぁ甲府ですからね。富士山はつきもの。

昨日、富士山麓は訪問しましたが、なんど観ても富士山は美しい。

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桃園神社

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桃園神社由来が書かれていた。

清和源氏の始祖である、清和天皇の皇子のひとりの荘園だったようだ。

周辺は桃園が点在していたので、その桃であろうかと思ったら、大間違い。

京都の皇子の在所が桃園であったために名付けられた様子。

氏子さんたちが接待されていたので、立ち話をしばし・・・。

こういうのは愉しいよね。

甘酒をふるまっていたようなので、そのつもりで居たら、お神酒を出された。

思わず呑んでしまった(^^)

帰路は三名がそれぞれ両手に持てないほどのミカンを渡された。

平場の境内は1haほどの杉林。

氏子さんは何戸あるんですの?との問いに、600戸ほど。

昔の村が全部氏子と仰せでした。

帰宅後、調べてみたら、武田を名乗ったのは、新羅三郎義光源義光)の三代後のようだ。現在のひたちなか市(旧勝田市)武田を領地と定められて以降のようだ。

ただし、悪行の末に配流された地が甲斐の地とされている。

ちなみに、秋田県の佐竹知事は、旧佐竹氏北家出身であり、戦国時代に、常陸太田市を拠点にしていた佐竹氏の末裔であり、武田と同様、源義光を祖としている。

千葉県は、桓武平氏の流れをくんでいる。

平の将門の叔父であった良文の後裔が千葉氏を名乗っている。

源氏隆盛の中、残った貴重な平氏の子孫。

 

長くなってしまったが、結局は、天皇家の分家嫡流桓武平氏清和源氏)と土豪が入り乱れての争いが戦国時代であり、両家の子孫と土豪が東西に分かれて、戦ったのが関ヶ原と云えなくもない。

徳川家は新田氏系源氏を称したようだが、事実はどうであったんだろうね?

 

桃園神社から遠い旅をしてしまった(^^)

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桃園神社本殿