もうひとつの下妻物語(卍や七代目)

二十数年ぶりに帰郷。まぁ当たり前だが、激変ぶりに浦島太郎の氣分に陥っている。温故知新。古きを訪ねる記。使っている画像は自分で撮影したもの。借り物の場合は其の旨記載します。人生の整理をするために書き残そうと考えてます。過激と思われることも多々あろうが、日本が好きだから、許せないことは明白にしておきたい。むろん、残り少ない人生でもあり、子孫への遺言でもある^^;

國王神社と豊田の小次郎

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國王神社(坂東市

生憎の雨だったが数年ぶりに、坂東市の國王神社を訪ねた。

NHKの大河ドラマは、昭和51年に加藤剛の主演で放送された。

平将門の生涯を描いていた。

歴史は往々にして勝者が綴る。

このドラマの原作は海音寺潮五郎、脚本は福田善之とある。

委細は譲るとして、将門は、桓武平氏の一族ゆえ、天皇家に連なる。

なにゆえ、平氏一族が関東(主に千葉と茨城)に派遣されたのかは、歴史的背景が物語っている。(西暦889年)

朝廷は、陸奥を制覇し得ておらず、とりあえず、制覇した坂東へ平氏を派遣したものであろう。

坂上田村麻呂征夷大将軍を任じられた当時、未だに、陸奥は朝廷に服従して居なかった。陸奥征討の折に動員されていたと思われる坂東の農民。(西暦795年任官)

ちなみに、この折に、和睦して朝廷に出向いた陸奥の英雄、阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)は処刑されたとされる。

和睦で出向いた者を処刑? 朝廷の公卿たちの怯えが推察できるが。

迷惑この上無いのは陸奥の民。

そもそも、征夷大将軍の征夷とは、中国の古典思想。

四方を夷敵に囲まれた漢民族は、南蛮北狄東夷西戎と呼び、恐れ蔑称をつけたもの。

朝廷はこれを真似て、東夷(朝廷に従わない東国の蝦夷)を制する大将軍の官位を付けたものであろう。

ちなみに、蝦夷とよばれる一族が蟠踞していたのは、現在の岩手県から青森にかけて。

福島や宮城は勢力圏が常に重なって居た様子。

 

それにつけても迷惑この上無かったろうね。

勝手に、蝦夷と呼ばれ、征夷大将軍なんぞを差し向けられて・・・。

この後も、岩手を中心にした陸奥は、政権に蹂躙され続けることになる。

②前九年・後三年の役(いずれ書きますが、宗道の宗任神社の起源となった安倍宗任の安倍一族と朝廷の戦い)

③安倍一族の血統でもある、藤原四代の滅亡(源頼朝に滅ぼされる)

豊臣秀吉に最後まで抵抗した九戸政実と豊臣政権との戦い

明治維新時に薩長に抵抗した東北列藩同盟(会津藩二本松藩の悲劇)

阿弖流為の時代から常に蹂躙され続けてきた東北。

判官贔屓の血が騒ぎますが、坂東武者は常に朝廷と幕府側で戦ってますわね~

 

桓武天皇の孫とも玄孫とも伝わる高望王平氏の起こりと伝わる。

高望王の子孫の派遣された先が、坂東平氏伊勢平氏

最近、知ったことだが、平家を頂点から滅亡までを刻んだ平清盛は一族の子孫。

 歴史書として遺されている物の断片を繋ぎ、小説にするんであろうが、小説家って凄いね。ちなみに、他にも将門公を書いた小説が、明野町(現筑西市明野)出身の政治家でもあった、赤城宗徳氏によっても書かれている。

 

国王神社のあるのは現在の坂東市

それ以前は、豊田の小次郎将門と呼ばれていた様子。

豊田は、元は石下町の東部。

現在は平らな水田地帯だが、当時はどうだったんであろうね?

勢力を伸張出来たということはそれなりの石高があったのであろうから、当時から水田稲作地帯だったんだろうか?

ちなみに、鬼怒川の堤防が決壊した際に水害にあった地域一帯が豊田と呼ばれる地域。

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豊田城? 当時は土塁だった筈。まぁ愛嬌。と決壊した鬼怒川(いずれもネット借用画像)

國王神社は、會津に逃れていた三女が帰郷し、庵を結んだのが起こりとされてるようだ。この三女は彫刻にも長けていたらしく、木彫り坐像も彼女であるとの説がある。

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将門を滅ぼしたのは俵藤太(藤原秀郷)&平貞盛(従兄弟)連合軍。

貞盛は父である国香が将門に殺されている。

三女の母親は、同じく一族から嫁いでおり、従姉妹。

一族の勢力争いであったと見ることも出来るが、そこに朝廷が加わったことにより、将門は逆賊となる。

この歴史はとても、興味深い。

福島の浜通り北部に相馬市がある。相馬野馬追いで有名な町でもある。

この相馬は、将門が蟠踞した相馬郡と同音であり、相馬・中村藩は平氏の一族千葉氏の子孫。始祖は将門の叔父の一人。

3・11後の冬に中村神社を訪ねることが叶ったが、神社は難を逃れたものの、この地域まで津波が押し寄せた跡が残されていた。

藤原秀郷の子孫が、藤原経清宮城県亘理町を所領とする。

この経清の奥方が安倍一族の貞任、宗任の姉妹であり、経清は安倍一族に助力し、源頼義に斬首される。

が、経清と安倍の娘との間に生まれた息子が清衡。安倍一族に敵対した清原一族に母親が嫁したために難を逃れて、清原氏になる。

清原の内紛があり、生き残った清衡が奥州藤原氏の祖となっている。

後に四代泰衡が義経を庇ったとされ、源頼朝に滅ぼされる。

藤原は、二度にわたり、源氏に殺戮されたことになる。

 

余談だが、岩井市の住民の一部は、今でも桔梗は植えず、成田山新勝寺にもお参りしないと云う。

桔梗は、藤原秀郷の紋であり、新勝寺は、秀郷と貞盛が戦勝祈願をしたとあり、未だに護り伝えているそうだ。

こんな話はワクワクしますね~

まぁ意地ですね。敬意を表したいもんです。

 

今回の参拝には、新発見があった。

ググってみたら、なんと、同じ坂東市内神田山に将門公の腰塚?があると云う。

首は朝廷に運ばれ、胴だけが遺されたのであろうか?

部下が運んだもんであろうね。

生憎の氷雨の中、訪ねてみた。カヤの大木の下に円墳があり、そこが墓所であると。

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どれか不明だったが、石碑は、物産にある首塚から移設されたもののようです。

天氣の良い日に再訪してみたい。

とても、とても、磁場が良い感じのお寺さんでした~

 

脇道、寄り道の國王神社でした~